観えたこと想うこと草子

旅と歴史をメインに少しスピリチュアルなお話を綴ります。

観えかた考 2

目には見えないものを観る場合、どのように観えるのか。

 

私の好きなテーマ「神仏や自然の聖霊、過去の偉人」を対象として考察します。

 

神仏や龍とコミュニケーション可能な方の本やブログを拝見したりすると、

あたかも近所の人と話をされているように描写されていたりする。

 

 すげえなと思います。

 

たまに私も神社などで言葉を感知することがありますが、せいぜい

 

「矢沢の2秒」

 

じゃないけど、時間にしてそのぐらい。

ちゃんと繋がっているのかも確認するひまもなく、突然言語の塊のようなものがやってきて言葉として脳内で変換する感じ。音声じゃない音声みたいな。

 

分かりにくいですね。

 

音じゃなくて「観る」だった。

 

フランスのルルドの泉を聖母のお導きで発見したベルナデッタは、聖母の姿について当局から尋問された際

 

「あなたを見るように見えるのです。」

 

と答えたと本で読んだ記憶があります。

 

「見る」と言う行為は脳内の視覚的変換。

 

ベルナデッタ以外誰も目にすることが出来ないものを、おぼろげな幽体じゃなくて、

実体感のある存在として捉えていた。

 

私はそこまで観えないし、観えたところで何に使うのかと言うレベルです。

 

 そう、何に使うのか。

 

私の場合、シータヒーリングのヒーラーとして活動する際に、リーディングでこの「観る」を使います。

はっきりとした映像はほとんどなくて、だいたい狭い視野にぼんやりとした景色しか

とらえられません。

 

でも、リーディングするには今のところ困らなくて、技術が上達すればもっと観えたりもするのでしょうが、まあいいかで現状に満足してます。

 

必要があって観るべきもの。

 

なんだかとりとめないけど、この言葉で今回は以上。