観えたこと想うこと草子

旅と歴史をメインに少しスピリチュアルなお話を綴ります。

紀州熊野三山と奈良県玉置神社をめぐる旅 4

旅の3日目、最終日。

 

朝5時過ぎに起きて身仕舞いを済ませ、宿の外の気配に耳を澄ませながらお茶を入れて飲みました。

 

山がそばにあるので、鳥のさえずりが部屋の中まで聞こえてきます。

 

熊野本宮大社から車で5分ほどのところのゲストハウスに今回泊りました。

 

6時半に朝食を摂った後、本宮大社に再びお詣りに行くことにしました。

 

お別れのご挨拶です。

 

境内で参拝してから大斎原に向い、途中の産田社で手を合わせてから大斎原に行き、熊野川の川原に行きました。

 

今日も良い天気になりそうな気配。

 

澄んだ空気の中、山や川、空に向かい

 

今度は家族と一緒に参拝出来ますように!

 

と心の中で祈りました。

 

8時過ぎにはチェックアウトし、最期の目的地 奈良県十津川村の玉置神社を目指しました。

 

実は当初、玉置神社に行く予定にはしていませんでした。

 

玉置山の中腹に鎮座する神社で、前回ツアーバスで駐車場までの道のりの険しさを体感していたので

 

私の運転技術では絶対無理!

 

とあきらめていたのです。

 

たまたま、旅行の直前に地元のお世話になっている方から

 

「あそこならタクシー頼んで行けるんじゃない?」

 

と教わり、調べたところ十津川温泉からタクシーで行ける事が分かり、これなら行けるかも!と急遽行くことに。

 

和歌山県奈良県の県境に位置する十津川村は、熊野本宮大社がある場所から私の運転で約35分程度で到着しました。

 

予約したタクシーは午前9時に十津川村バス停駐車場で待ち合わせ。

 

少し早く着いたので、目の前を流れる翡翠色の大きな川が流れる山間の景色を眺めて過ごしました。

 

自然溢れる場所で、ぼんやりするのは大好き。

 

人より行動が遅くて、小さい頃は母親からいつも急かされていたなあ・・・

 

そんなことを思い出しているとタクシーが到着。

 

9時過ぎに出発しました。

 

玉置神社への道すがら、運転手さんからいろいろ面白いお話を聞かせていただきました。

 

せまいぐにゃぐにゃ道を慣れた運転ですいすい進みます。

 

「時間が早いから車が下りてこないけど、昼過ぎはごった返しますからね。」

 

そんなに参拝者が多いのですか?

 

「ここ5年ぐらいですかねえ。

以前はほとんど人が訪れない静かな場所だったのに。

マナーの悪い参拝客も増えましてねえ・・・困ったもんだ。

手を合わせる前に拝殿を真正面からこう、バーンと写真撮ったりね。

玉置神社を利用して商売する輩も出てきたし。」

 

なるほど

 

それにしても

 

5年前のツアー時は、玉置神社の駐車場にツアーバスと1~2台車が停まってるだけだったのにな・・・

 

急に大人気の神社になったのでしょうか。

 

神さまから見たマナーの悪い参拝客ってどうなんだろう・・・と思いました。

 

かく言う私も過去、真正面からある神社の本殿を大きく撮った直後、明らかに

 

怒られた

 

という事象がありました。

 

なので、今は拝殿を真正面から大きくではなく、斜で遠景で撮るか、全く撮らないか、です。

(下手だし)

 

神さまから見たら濃淡の差こそあれ、だれもが皆同じに見えるんじゃなかろうか・・・

 

非礼に気づいたら反省し、以降は可能な限り畏敬の念で行動する

 

これしかないのではなかろうかと、今のところ思います。

 

さて

 

神社の駐車場について、運転手さんからいただいた案内図を手に参拝に向いました。

 

遠くに山々が見える景色を横目に、深い森の中をひたすら歩きます。

 

参拝客もちらほらとおられるだけで、静かな山道が続きます。

 

前回立っていなかった幟がずらりと参道脇に並んでいたので驚きました。

 

それだけご加護をいただいた企業や個人が多いと言うことなのでしょう。

 

天気は薄日がさしてちょうど良い気候。

 

ほどなくして神社に到着。

 

御祭神

 国常立尊(くにとこたちのみこと)

 伊弉諾尊(いざなぎのみこと)

 伊弉冊尊(いざなみのみこと)

 天照大御神(あまてらすおおみかみ)

 神日本磐余彦尊(かむやまといわれひこのみこと)

 

玉置山の頂上近く、標高1000m付近に鎮座する玉置神社は、第十代崇神天皇の時代に王城火防鎮護と悪神退散のため、 創建されたと伝えられています。

入母屋造り内陣に三社を奉祀、欅(けやき)材の堂々たる社殿です。

                    (玉置神社 HPより)

 

 

現在改修中とのことで、拝殿前の階段を上がってすぐの左に臨時の社務所が作られていました。

 

まずは作法通りに参拝して手を合わせました。

 

何だかきゅっと心が引き締まるような感じ。

 

おみくじもひゃっと背筋が伸びるような若干厳しめな内容で、

 

神さま厳しい・・・

 

と思わず心の中でつぶやきました。

 

玉置山は修験道の修行場所の一つ。

 

深い山の中に鎮座されているし、厳しめなのは致し方ないのかもしれません。

 

案内図のとおりにさらに山を登って「玉石社」へも行きました。

 

ご祭神

大巳貴命 (おおなむぢのみこと)

 

古代、神武東征以前から熊野磐座信仰の一つとして崇められてきた玉石は、 玉置神社本殿と玉置山頂上中程に鎮座します。

社殿がなくご神体の玉石に礼拝する古代の信仰様式を残しています。

玉置神社の基となったのが、この玉石社と伝えられ、玉石に宝珠や神宝を 鎮めて祈願したと伝わっています。

大峯修験道では、玉石社を聖地と崇め、本殿に先んじて礼拝するのが習わしと なっています。

                    (玉置神社HPより)

 

ありゃ、今読んで分ったけど、先に本殿から手を合わせてしまった・・・でも修験者じゃないから(今生は)

 

いいよね!

 

と胸をなで下ろしました。

 

実は玉石社へ到着する直前、左上に何ものか分らない何かの気配を感じました。

 

例えるなら、少し空いた電車に乗っていて50cm横に誰かが座ったと分るのと同じくらいに。

 

見張られている・・・・

 

と感じました。

 

しばらく様子をうかがっていると気配が消えたので、玉石社で手を合わせ、参拝の感謝を心の中で宣べました。

 

参拝後

 

しばらくその場に座って、誰も居ない深い木々の佇まいや空気を楽しみました。

 

それから

 

大きな岩の白山社にも手を合わせ、運転手さんの待つ駐車場へ戻りました。

 

「早かったですね!」

 

そ・・・そうですかね。

 

「玉石社、行かれました?」

 

ええ、行きました。

 

運転手さんが一瞬私の表情をじっと見つめてから

 

「ほな、行きましょうか。」

 

なになに?今の間は・・・と思いつつ車に乗り込み、玉置神社を後にしました。

 

その前に駐車場から見える素晴らしい山並みの景色をパチリ。

 

次、いつここへ来れるかなあ・・・!

 

と思いつつ、車窓から見える景色を名残惜しく目に焼き付けました。

 

十津川村バス駐車場で下ろしてもらい、近くの温泉にも入ってから運転手さんに教えてもらった炊き込みご飯のお店でお昼を手早く済ませ、早めに車に乗り込みました。

 

レンタカー返却場所の大和八木駅まで北上します。

 

時間内に無事返却できるか不安で、ほとんどノンストップで2時間半運転し、決められた時間の2時間前に返却出来ました。

 

手続きを終えて駅まで歩きながら

 

やったーー!!!

 

と心の中で快哉を叫びました。

 

この後

 

時間があったので、橿原神宮も参拝出来ました。

 

こうして

 

生まれて初めてのレンタカーを使っての一人旅が終わりました。

 

無事にしかも楽しく、旅が終わったことに心から感謝。

 

適当に決めたのにかかわらず、旅程が無理なく無駄なく不思議な道行きでした。

 

次はいつ来れるかなあ・・・と思いながら、広島行の新幹線に乗り込んだのでした。

 

 

 

桜が満開の川べりでしばしぼんやり・・・

 

 

玉置神社駐車場から進んで2番目の鳥居

ここからさらに歩いて本殿へ

幟旗の多さにびっくり!

 

静かで厳かな雰囲気

 

参拝後、タクシーに乗り込む前に山並みの景色をパチリ

名残を惜しみつつ帰路につきました

結局本殿も(何だか怒られそうで)撮らずじまい

 

 

紀州熊野三山と奈良県玉置神社をめぐる旅 3

熊野本宮大社へ向う道すがら、早めのお昼をとることにしました。

 

せっかくマグロで有名な那智勝浦にきているのだからと、大門坂近くのドライブイン

「マグロ丼」をいただきました。

 

実は私は生魚は苦手。

(瀬戸内の島に住む人間なのに・・・)

 

しかし、その意識をはるかに凌駕する美味しさでした。

 

まず、お冷やの水からして味が違う。

 

ゴクンと一口飲んで驚愕の美味しさ!

 

あの・・・これ、メッチャ美味しい水ですけど・・・

 

とお店の人に問うと

 

那智山の伏流水を使ってるんですよ。

お料理もここのお菓子も全部、その水を使ってます。」

 

なるほど。

 

良いエネルギー(情報)があればあるほど水は美味しくなると聞いたことがあります。

 

那智山に磨かれて美味しくなる情報を水が記憶するのだろうか・・・と思いました。

 

マグロ丼に始まり、かけるタレに薄味のお味噌汁。

 

素朴なメニューだけに、素材の旨さを十分に堪能することが出来ました。

 

大体食べものにほとんど紙面を割かない私が、ここまで書きたくなる美味しさ。

 

お腹も心も十分に満たされて、出発。

 

お昼過ぎには熊野本宮大社(和歌山県田辺市)の無料駐車場に到着。

 

 

熊野本宮大社HP より ↓

 

縁起・神話

天火明命(あめのほあかりのみこと)は、古代、熊野の地を治めた熊野国造家の祖神です。天火明命の息子である高倉下(たかくらじ)は神武東征に際し、熊野で初代神武天皇に天剣「布都御魂(ふつのみたま)」 を献じてお迎えしました。

時を併せて高御産巣日神(たかみむすひのかみ)は天より八咫烏(やたがらす)を遣わし、神武天皇を大和の橿原まで導かれました。

第十代崇神天皇の御代、旧社地大斎原の櫟いちいの巨木に、三体の月が降臨しました。天火明命の孫に当たる熊野連(くまののむらじ)は、これを不思議に思い「天高くにあるはずの月が、どうしてこのような低いところに降りてこられたのですか」と尋ねました。すると真ん中にある月が「我は證誠大権現(家都美御子大神=素戔嗚尊)であり、両側の月は両所権現(熊野夫須美大神・速玉之男大神)である。社殿を創って齋き祀れ」とお答えになりました。

この神勅により、熊野本宮大社の社殿が大斎原に創建されたと云われています。

 

なんと!

神さまが降臨されたとき、木に月が3つ降りたかのように見えたということなんですね。

 

不思議な光景です。

 

神さま方は木に宿られながら誰かが来るのをじっと待たれていたのでしょうか。

 

「我らの存在が分って社殿を造ってくれそうな者が現れないかなあ。」

 

そこへ熊野連さん登場。

しっかりとお役目を果たされたのですね。

 

さて

 

まず、幟旗が沢山並び立つ参道の階段を歩いて熊野本宮大社の境内に向います。

 

晴れ渡った空の元、そびえる社殿が何とも素晴らしい。

 

4つの拝殿が並んでいるのですが、お参りの順番どうだったかな・・・と思っていたら、目の前を年配のご夫婦がちゃきちゃきと手慣れた感じで第三殿からお参りを始めたので、後からそっとついていくことにしました。

 

第三殿で参拝のご挨拶とここまで来れた感謝を心の中で申し上げると、ふいに胸がいっぱいになって涙がこぼれそうになりました。

 

魂が喜んでいるのでしょうか。

 

その後ご夫婦のあとに従い順番通りにお参りして、しばらく境内でぼんやりと佇んで雰囲気を楽しんでから、旧社地である大斎原に移動しました。

 

日本一の高さの大鳥居が立つ熊野本宮大社の旧社地である大斎原は、明治22年に大水害で一帯が流されるまで、社殿があった場所。

 

田んぼが広がる中に大きな鳥居が立っているので、そこを目指して歩きました。

 

今年世界遺産登録20周年という横断幕が掲げられていました。

 

前回参拝したときは、熊野本宮大社ご創建2050年という記念の年で、その時は特別な御朱印をいただきました。

 

たまたま、節目の時期に来てるのかな・・・

 

入り口付近の桜の木が満開でとてもきれいでした。

 

大斎原に向う手前に熊野本宮大社末社産田社(うぶたしゃ)があります。

 

八百万の神々をはじめ、総てを産みだされた産土の神と崇められている「伊邪那美尊」がご祭神です。

 

5年前のツアーの時も確かこちらで手を合わせたはず。

 

今回も参拝することに。

 

すると、黄色いちょうちょが先導してひらひらと目の前を飛んで行きます。

 

産田社で手を合わせると、ちょうちょは目の前の石の祠の前に咲いている花に舞い降りました。

 

何だかお導きをいただいたようで嬉しくなりました。

 

今この記事を書いていても、胸の奥がポッと温かくなるようなほんわかしたエネルギーを感じます。

 

ひっそりとして訪れる人がほとんどいなかったのですが、私個人はとても好きなお宮だと思いました。

 

そこから大斎原に向いました。

大鳥居の前で一礼して、桜が花盛りの境内に入っていきました。

 

その先の参道の並木道とそばを流れる熊野川の川べりが実は一番好きな場所。

 

これらの場所は前回来た時、初めてにもかかわらず既視感がすごくあったので、もしかしたら過去生の記憶なのかもしれません。

 

今回も並木道をゆっくり歩き、熊野川のほとりで1時間近く一人座り込んでぼんやり川の流れを眺めて過ごしました。

 

周りの熊野の山々に囲まれた景色の中、爽やかな風と日の光、山の清々しい空気の中川の流れの音に包まれて・・・

 

心と体が芯からほぐれていき、癒やされていくのが感じられました。

 

気がつくと午後3時になる頃。

 

朝も早かったし少々くたびれたので、無理せず早めに本日の宿へチェックインすることにしました。

 

その前に参道横のカフェで甘いものをいただいて一休み。

 

疲れた体に甘みがしみこんでいくようです。

 

こうして、一人旅2日目も無事に過ぎていきました。

 

いただいたマグロ丼
絶品でした

 

 

熊野本宮大社参道の階段上で振り返って撮影

(境内社殿は撮影禁止とのことで撮っておりません)

 

「鷲は舞い降りた」ならぬ手水舎に八咫烏さんが舞い降りた!

 

 

大斎原の大鳥居をのぞむ

撮影が元々不得手で、鳥居が切れてしまいました

桜が満開でした

 

産田社の案内の看板

景色とマッチしています

 

大斎原の大鳥居をくぐったところ

生涯2回目の参拝ですが、この景色に既視感があります

 

大斎原横を流れる熊野川の河原で空を撮ってみました

雲が面白い形

 

ここで1時間近く1人座ったまま・・・

 

参道近くのカフェで一休み

左の薄茶色がもうで餅

甘さがちょうど良くて美味しかったです

 

 

 

 

紀州熊野三山と奈良県玉置神社をめぐる旅 2

2日目。

 

本日の予定 

 

午前は熊野那智大社、午後から熊野本宮大社の参拝。

 

朝起きると有り難いことに頭痛とめまいはすっかり消えて、

 

雨も上がって晴れ間が広がりそうな天気との予報に安堵しました。

 

6時半に朝食をとって何をするでなく部屋で過ごしていましたが

 

やっぱり早めに出よう!

 

7時半には出発しました。

 

大体の行き先を決めたら後は適当

 

というのが私の旅のスタイル。

 

宿から出発して車を走らせること20分ぐらいで、熊野古道の1つ大門坂の入り口にある駐車場に到着。

熊野那智大社はここから私の足で歩いて約30分ほどかかりました。

 

熊野那智大社のご由緒↓

 

熊野那智大社は、田辺市熊野本宮大社新宮市の熊野速玉大社とともに熊野三山の一社として、 全国約4,000社余ある熊野神社の御本社でもあり、日本第一大霊験所根本熊野三所権現として崇敬の篤い社です。

 

古来当社はご祭神「熊野夫須美大神」の御神徳により「結宮(むすびのみや)」と称され、人の縁だけでなく諸々の願いを結ぶ宮として崇められました。那智御瀧は自然を尊び延命息災を祈る人が多く、また八咫烏の縁起によりお導きの神として交通・海上の安全の守護を祈り、さらに御神木の梛の木は無事息災をあらわすものとして崇められています。                                                 

(熊野那智大社HPより)

 

山に囲まれた駐車場は広々として、私の車以外ほとんど停まっていません。

 

ここから山の中を歩いて熊野那智大社飛瀧神社(ひろうじんじゃ)を目指します。

 

登山道の入り口で2人ほど出会っただけで、後はずっと1人。

 

古の人々が歩いていたこの道を、今日のこの時間私だけ・・・

 

身も心も清まるような原生林の中の山道をひたすら歩き続けました。

 

長い年月の経過で足下の石は丸くすり減り、バランスを取りながら気をつけて歩かないと転びそうになります。

 

階段の一番上に来た頃、やっと人の姿を目にしました。

 

まだ準備中らしき様子の参道のお店を通り過ぎて歩いて行くうちに、目指す御瀧が遠くに見えてきました。

 

ああ、とうとう来た・・・

 

さらに家が建ち並ぶ脇の石の階段をあがり、熊野那智大社の境内に出ました。

 

まず拝殿でご挨拶と参拝の感謝、そして横にある八咫烏神社でも手を合わせました。

 

私は八咫烏さんが大好き。

 

熊野と言えば八咫烏

 

霊的にリーディング出来る方3人に(時期と場所はそれぞれ違います)

 

「あなたは過去生、熊野で修験者でした。」

 

と言われたことがあります。

 

なので

 

こんなにも熊野地方や八咫烏に惹かれるのは、過去生の魂の記憶なのかもしれない・・・とも思います。

 

前回ツアーのときに境内のご神木の胎内くぐりをツアーの皆さんとキャアキャア言いながらやったなあ・・・と思いだし、この度もチャレンジしました。

 

今回は一人静かにくぐりました。

(絵馬か護摩木を購入し手に持ってくぐります)

 

同じ境内にある青岸渡寺でも手を合わせました。

 

修験道のお寺とのことで、近くで法螺貝が吹き鳴らされていました。

 

まさに「神仏習合」の雰囲気です。

 

瀧が前方に遠く見える展望台からしばらくぼんやりと景色を眺めていると

 

「はよ、来い!」

 

と脳内に野太い声が響いてびっくり!

 

過去生の私を覚えていて八咫烏さんから叱咤されたのだろうかとあわてて先を急ぎました。

 

八咫烏さんは厳しめと聞いたことがあります。

 

熊野那智大社の別宮 飛瀧神社(ひろうじんじゃ)にたどり着く頃には、足にかなり疲労がたまってきましたが(しゃれではなく)、もう一踏ん張り。

 

とうとう御瀧が眼前に広がる境内までやってきました。

 

遙拝場所で手を合わせると、瀧の水しぶきがパチパチと顔に飛んできます。

 

目の前の瀧のお姿に言葉がありません。

 

気持ちいいなあ・・・

やっと来れた・・・

有り難いなあ・・・

 

そこから先の瀧のすぐ前まで行ける参入料を支払い、瀧壺のお水が飲める入れ物も購入して、入ってすぐのところで早速お水を汲んで有り難くその場でいただきました。

 

ああ~~~おいしい~~~!!

 

とぐびぐび一気飲み。

(周りに人がいなかったのが幸い)

 

瀧のすぐそばまで移動してしばらくそこで落差133mの御瀧のごうごうと水が流れる様を眺めました。

 

やっと、やっと、参拝出来た。

有り難い・・・

 

ここでも手を合わせました。

 

気がつくと、境内に段々人が増えてきたのが見えました。

 

そろそろおいとまいたします・・・

 

もう一度大瀧に向って手を合わせてご挨拶してから飛瀧神社の境内に戻ると、宿で一緒だった方とばったり遭遇!

 

同年配の女性で、お互い一人旅のよしみでしばらく話に花を咲かせているうちにその方が

 

「瀧が凄い!見て見て!。」

 

と指さす方をみると、さっきまで無かった霧が御瀧の上方にどんどん垂れ込め、なんとも幽玄な景色となっていました。

 

二人でこの光景が見られて良かったね!と言い合い、またどこかでお会いしましょう!と分かれたのでした。

 

「はよ、来い!」

 

の声の導きは、この方と遭遇し霧に包まれる大瀧のお姿を一緒に目にするタイミングだったのだろうか・・・と思いました。

 

私は元来た道をまた戻り大門坂を通って車に戻ることに。

 

その前に黒飴ソフトクリームを購入し、一休みしてから出発しました。

(往復山中の歩きは正直きつかったです)

 

車に乗り込んで、次の目的地、熊野本宮大社を目指しました。

 

ここから熊野古道歩きをスタート!

朝早いせいか曇りがちな空

 

両側の大木(大門坂の夫婦杉)に圧倒されつつ歩きます

 

私の後に誰もおらず・・・

 

前にも誰もおらず・・・

 

御瀧をのぞむ

晴れていたのですが、アングルの関係で暗めに写ってしまいました

 

紀州熊野三山と奈良県玉置神社をめぐる旅

4月に入ってまもなくのある日。

5年来行きたかった紀州熊野三山と奈良の玉置神社へ2泊3日で行きました。

 

5年前にツアーに1人参加して実に楽しかったので、又行きたいと思い続けて(コロナや夫の反対やらを乗り越え)やっとこの度実現しました。

 

あの時中学生、小学生だった我が子達も大学生と高校生。

二人とも自分の食べる分ぐらいは食事の支度も自分で出来るようになり、その辺の後顧の憂いも減少しました。

 

5年前の旅行は仕事をしていたので旅費は問題なかったのですが、今は専業主婦。

夫が来ない1人旅で出してとも言えず、コツコツ貯めたへそくりを算段しました。

 

広島から遠く離れた場所でレンタカーを借りての2泊3日の1人旅は生まれて初めて。

 

何で決行したのでしょう・・・?

 

分りません。

 

でも、なぜか行かなきゃ行けないし行きたい。

 

ということで1番早い船に乗って島から出発。

 

前回行ったツアーと同様の場所へ行くことにしました。

 

和歌山県

神倉神社→熊野速玉大社→熊野那智大社熊野本宮大社の順で周り

 

最期に

奈良県 玉置神社

 

新幹線と特急を乗り継いで和歌山県新宮駅まで行き、ここからはレンタカーを借りて移動を開始!

 

と軽快にいきたいところ、元々が虚弱体質で移動時間の長さで消耗しきって、新宮駅に着いたときは頭痛とめまいでふらふら・・・

土砂降りの中レンタカー屋さんまでふらつく足取りで向かいました。

 

最初の参拝予定だった神倉神社が鎮座する場所は山中なので、その辺の事情を店員さんに聞くと

 

「この天気だと下りが危ない。やめておいた方が良いですよ。」

 

とのことでこの度は断念。

 

まあ、この体調だと元々無理だったかとすっぱりあきらめもつき、熊野速玉大社に向かいました。

 

この神社のご由緒は↓

 

熊野速玉大社は、熊野三山のひとつとして全国に祀る数千社の熊野神社総本宮です。

今から約二千年ほど前の景行天皇五十八年の御世に、熊野三所権現が最初に降臨せられた元宮である神倉山から現在の鎮座地にお遷りになり、これより神倉神社の『旧宮』に対して『新宮』と申します。            

御祭神は、熊野速玉大神(いざなぎのみこと)・熊野夫須美大神 (いざなみのみこと)を主神に、十二柱の神々を祀り上げ、新宮十二社大権現として全国から崇敬を集めています。

(熊野速玉大社HPより抜粋)

 

 

初めての一人レンタカーに表情には出さずとも心臓が飛び出るくらいドキドキしながら

出発しました。

 

昼下がりのやや小ぶりになった雨の中、駐車場に着いて車を降りるとすぐ足下に鳩が1羽やってきました。

 

あげる餌ないよ~

 

と心の中でつぶやきつつ、ズキズキする頭を気にしながら鳥居でお辞儀をしてから境内へ。

 

大きな梛(なぎ)のご神木に驚きつつ、参拝しました。

 

前回は拝殿を入ったすぐの所で宮司さんの説明でツアーの皆さんと熊野曼荼羅絵解きのお話を聞いたんだった・・・

 

と手を合わせながらその場所を見つけて懐かしく思い出しました。

 

ザクザクと砂利を踏みしめながら写真を撮るのにアングルを決めていると、バサバサっとさっきの鳩さんがまたそばにやってきました。

 

あらま、ここまで来たか、餌無いのにと思いつつしばらく周りを眺めて、夕暮れがせまる境内の雰囲気を楽しみました。

 

こちらの神社は、とても繊細なエネルギーを感じる・・・と思いました。

 

境内の雰囲気は気持ちよくてもう少し居たかったところですが、頭痛とめまいは治まらないし雨で肌寒いし、そろそろ宿に向かおうと車に戻ることにしました。

 

車に乗り込もうとするとまたさっきの鳩さんが飛んできて、もしかしてお見送りに来たのかと(勝手に思い)手を振ってお別れしました。

 

本日の宿がある那智勝浦に向かいます。

 

宿に入って食事前にまずこの体調を何とかしようと大浴場に入って温まることにしました。

 

砂浜に寄せる波の音がすぐ近くに聞こえて非常にリラックス出来ます。

 

温泉ではありませんが、備長炭をふんだんに使用したお湯は柔らかくてまるで温泉のような感触。

 

食事をした後は頭痛とめまいを治すべく頭のツボ押しをしてから早めに就寝しました。

 

ドキドキの1人旅第1日目が無事終わりました。

 

 

朱塗りの鳥居が美しかったです

 

社殿をのぞむ

 

 

山口県の由緒あるお寺と神社に行きました

雨が降り止まぬ3月も末のある日、学校が春休み中の娘と山口県防府市にある周防国分寺を再訪しました。

 

1月に参拝した折、帰る道で娘の体調をこちらの仏様が治してくださったとのことで、そのお礼の参拝です。

 

その時の過去記事

 

 

霊的に観える方と最近ご縁が出来たので確認すると

 

「お薬師さまのお姿が観えますよ。」

 

とのこと。

 

直近で娘が手を合わせたのはこちらのお薬師さまだし、間違いない!と親子共々確信しました。

 

雨混じりの台風並みの強風が吹き荒れる中、山口へ向かう高速道を運転中絶えずハンドルを取られそうになりました。

 

なんで、こんな日に行くことになっちゃったかなあ・・・!

 

とつぶやきながら、山口県に入ってしばらく走るうちに急に陽が出てきて天気が回復傾向になったのでホッとしました。

 

お寺に到着し拝観料1人500円を払ってご本尊がおられる金堂の中に入ると、先に来られていたお客様にガイドの方がお話しされている最中でした。

(堂内は撮影禁止)

 

しばらくして私たちだけになり、今日はこの後特に用事もないことだしとガイドの方にお話をお願いすることに。

 

実に丁寧に周防国分寺の創建から時代の変遷と現在を説明してくださり、しかもお上手な語り口で気がつくと1時間近くもの時が経っていました。

 

歴史好きな私は時折質問したり、ワクワクして耳を傾けました。

 

聖武天皇の御代から規模は変えつつも同じ場所に現在も国分寺が建っていること

 

ご本尊が、当初お釈迦様だったのが奈良時代も終わり頃、今のように疫病や天災が続き

現世利益を願って、国分寺のご本尊がお薬師さまに代えられたこと

 

時代の中でお寺もボロボロになった状態から、大内氏から毛利氏と変わりながらも有力者の庇護が続いて修復され、今まで残る事が出来たこと

 

戦争時に空襲に遭わなかったことで焼失が免れたこと

 

などなど、教科書では学ばなかったこと等も細かく面白く聞かせていただきました。

 

「もっとたくさん参拝いただいたら良いんですがなあ・・・。」

 

とのことでした。

 

それにしても・・・鋭い眼差しの大きなお薬師さまや日光・月光菩薩立像に四天王、12神将がずらりと居並ぶ立体曼荼羅状態の景色を眼前にして1時間近く居続けたせいか、何やら体の芯からすっきりと邪気が消え失せたような感じがしました。

 

お話をじっくり聞いたあまり、ランチタイムを逃してしまいました。

 

境内散策後、ぶらぶらと車道に出て歩きながら

 

防府は雅な雰囲気が漂ってええねえ。

 

と娘と話しつつ防府天満宮参道そばのまちの駅を目指しました。

 

まちの駅の売店でテイクアウトのスイーツを買って取りあえず糖分を補給し、せっかくだからと防府天満宮を参拝することとしました。

 

鳥居をくぐると、なごやかな雰囲気漂う境内がまた気持ちよくて、雲間から太陽ものぞきすっかりくつろいだ気分で参拝することが出来ました。

 

まちの駅で見た動画によると

 

防府天満宮菅原道真公がお亡くなりになった翌年に建てられた日本最初の天満宮とのこと。

 

菅公(菅原道真)が太宰府に流される際、本州最期の地としてこの防府に立ち寄られたそうです。

 

西暦903年3月26日に太宰府の地で亡くなった際、この地にご神光が来て山に彩雲がたなびき、翌年菅公を祀る天満宮が出来たとのこと。

 

参拝して帰宅途中に今日が3月26日と気がついて

 

道真公が亡くなられた日じゃん!!

 

とびっくり!

 

帰宅して夫にそのことを伝えると

 

「たまたまじゃろ。」

 

といつもの弁。

 

たまたまがやたら多いよねえ。

 

と返答しつつ今日の参拝に心から感謝したのでした。

 

 

周防国分寺 金堂

 

境内にある樹齢1000年の槇の木

下から見上げるととても優しい雰囲気で癒やされました

 

 

 

昔住んでいた場所へ・・・ 広島県廿日市市桜尾城跡 桂公園

3月のある日、広島県廿日市在住の長年お世話になっている方からお習字を習いませんかとお誘いいただきました。

 

お習字なんて、高校の選択科目で習って以来やってないなあ・・・

字が綺麗にかけたらうれしいかも!

 

まずは体験で参加することに。

 

場所はその方の自宅です。

 

廿日市市は結婚当初から長子である娘と4学年下の息子が生まれるまでの数年間住んでいた場所。

 

懐かしさもあって、お習字のお稽古が終わってふらっと歩き回ることにしました。

 

住んでいた場所のすぐ近くに城跡を公園にした場所があって、娘が赤ちゃんの頃たびたび散歩に連れて行ったことを思い出しました。

 

そこを目指して歩くうちに、懐かしい町並みを目にして、育児に奮闘していた若かりし頃の自分の姿が脳裏に浮かんできました。

 

乳母車を必死の形相で押していただろう自分の姿がまるで昨日のことのようです。

 

公園のベンチでむずがる娘をあやしつつおむつを替えたこともあったっけ。

あの時はこっちまで泣きそうだった・・・

 

もっと肩の力を抜いた育児が出来たら良かったのになあ・・・

 

一瞬目を閉じて目を開けると、当時の自分が薄くなって空に溶けていくような気がしました。

 

お稽古があった廿日市駅周辺からしばらく歩いて、桜尾城跡 桂公園に到着。

 

元は鎌倉時代から続く古いお城の跡で、戦国時代は毛利家の家臣桂元澄が入城し、厳島合戦の後方支援に携わったとのこと。

 

兵どもが夢の後

 

今は住宅街の中の公園として静かな佇まいを見せています。

 

ブランコやベンチ・・・公園のあちこちに残る娘と遊んだ思い出の場所たちに心の中で挨拶とお別れを言いながら、公園を後にしました。

 

 

公園入り口

桜の木がいっぱい!

桜の季節が楽しみです

 

誰もいない公園

時間にもよるのでしょうか・・・

 

公園内の記念碑

日露戦争時の内閣総理大臣 桂太郎さんは元澄公のご子孫なのですね

 

公園横の道から撮影

元城郭の雰囲気があります

 

 

 

日帰り 出雲の旅 続き

次に向かったのが玉造温泉街。

 

ここを目指したのは、知りたかったことをこの目で確かめてみたかったからです。

 

以前から古代の出雲の歴史を調べていて、興味を持った話がありました。

 

出雲国造は国造が亡くなるとすぐ兄弟なり子供が後を継ぎ、松江市大庭町の神魂神社で就任式を行い、一年間斎戒沐浴して天皇への献上品を持って神賀詞奏上儀礼を読み上げる。

帰ってまた一年斎戒沐浴してから上京し、神賀詞奏上儀礼を行う。(抜粋)

(學生社版 2011年 岡田精司著 「新編 神社の古代史」)

 

出雲国造(いずものくにのみやつこ)とは、意宇郡を基板に持つ出雲国内でも勢力を持った豪族で、祭祀を司り、国司に協力して政治を行っていた人物。

 

神賀詞奏上儀礼(かむよごとそうじょうぎれい)というのは、出雲国造が就任の際朝廷で行う儀式で、出雲から大和への服属儀礼とも考えられていたそうです。

 

「新編 神社の古代史」の中で書かれているこの儀式についての説明 ↓

日本では降伏した人が新たに主人になった人にたいして、あなたの寿命がいつまでも、あなたの治世がいつまでもと祝福することが忠誠を誓う形になる。

この形はずっと後世まであり、民間芸能や民謡にもよく見られますが、一番古い形は出雲の国造の神賀詞です。

 

「こども出雲国風土記」(山陰中央新報社 川島芙美子著)

に、その様子が分かりやすく説明されています。

 

出雲の国は、大陸とのつながりが強い場所にあるせいか、国造の力が強く、国造が代わる時には、百人ほどの行列をしたてて、奈良へあいさつに行きました。朝廷では天皇をはじめ、大臣や各省の上級の役人たちが出雲国造を迎える儀式を行いました。

 

この儀式の詳細については長くなるので省きますが、玉造湯神社の崖の下の畑になっているところが出雲国造が斎戒沐浴したところだったということを知って、機会があればそこに行ってみたいと常々思っていました。

 

今回やっと希望が叶いました。

 

無料の駐車場に車を停めて、趣のある橋が何本もかかる温泉街の川の両側の道を歩きました。

 

古代から玉造の工房で賑わっていただろうこの街には、今やたくさんの旅館やホテルが建ち並び、カフェや雑貨もあります。

 

天気もよくて観光客も多く、賑やかでした。

 

川には降りられるようになっていて、川にそって、何カ所か足湯の場所があり、沢山の人が足湯を楽しんでいました。

 

帰りに足湯に浸かれるかなと横目で眺めながら、目指す玉造湯神社を目指しました。

 

この一帯は、玉造りに適した石が豊富に産出したことから古代から勾玉や管玉などが造られていた場所で、6世紀頃には10戸あまり50人ほどの人が住んでいたと「こども出雲国風土記」に書かれていました。

 

玉造湯神社はパンフレットによると

 

「式内の古社で、貞観十三年(871年)十一月神従四位したを授く」

 

とのことでしたが、お社はもっともっと古くから信仰されていたのではないか・・・と思いました。

 

神社は玉をつくる工房跡周辺に立っていて、そこは低い山というか丘のような地形でした。

 

拝殿で手を合わせてから周りをうろうろ歩き回りましたが、周りは木々に覆われてそれらしい場所が皆目見当つきません。

 

「事前によう調べてこにゃあ!」

 

と夫に怒られつつ、神社の周りをぐるぐる歩きつづけ、仕方なく社務所に戻り、窓口の方にお尋ねすることにしました。

 

すいません!出雲国造が斎戒沐浴した場所ってどこでしょうか?

 

「あそこのおすそわけ茶屋の辺りですよ。」

 

そこから数百メートル先の建物を指さして、すらすらと教えてくださいました。さすが!

 

ありがとうございます!!

 

一目散にその茶屋を目指し、辺りをシャーロック・ホームズよろしく丹念に散策しました。

 

夫と娘は、必死に目を凝らしてスマホ片手にぐるぐる歩き回る私の鬼気迫る様子に呆れ果てていました。

 

このおすそわけ茶屋という休憩所のような建物のまわりに、石で形作られた池のような場所を見つけましたが、これが遺跡のなのかよく分りませんでした。

 

建物に隣接して江戸時代に松江藩主が使っていたというお風呂の跡が再現されていました。

 

要するに、ここはやんごとなきお方が湯浴みをする場所だったんだな・・・と思いました。

 

感覚を研ぎ澄まして古代に思いを致したかったところですが、長時間の運転と歩きくたびれてくたくた、しかもまた4時間あまりかけてこれから帰らねばというプレッシャーで、心にゆとりがなくあきらめました。

 

こちらの神さまの雰囲気のようなものを一瞬だけ感じましたが、それは明るく透明感のあるエネルギーでした。

 

ご祭神は

 

櫛明玉神

大名持神

少彦名神

五十猛神

 

櫛明玉神というお名前を目にして、感じた雰囲気にぴったり!と思いました。

 

辛抱強く待ってくれた夫と娘に感謝しつつ、川べりにあった足湯をしてしばし足の疲れを癒やしました。

 

次回来た時は地元の資料館にも足を運びたいと思いつつ車中の人となり、やっと帰路についたのでした。

 

川沿いの道にあったオブジェ

八岐大蛇がまるでキングギドラ

 

街のすぐそばにある玉造湯神社

神秘的な雰囲気が漂って

 

拝殿をのぞむ

 

木々の間を探索しましたが何も分らず・・・

地面がふかふかして不思議な感触でした

 

境内敷地内で見つけたうねうねの枝

池もそばにあって神秘的な雰囲気でした

 

おすそわけ茶屋

ここが出雲国造が1年間斎戒沐浴した場所とのこと

昔の1年は今の太陽暦の1年とは違うけど・・・でも長期間の滞在にはなったことでしょう