(※何年かかけて、夫と神武東征の軌跡を出来る範囲で追ってきたので
気の向くままアップしていくシリーズ)
多家神社(たけじんじゃ)
を参拝しました。
埃宮(えのみや)とも呼ばれています。
(北九州にある伝承地を飛ばしておりますが、まだ行けていないためです。)
同じ広島県内に埃ノ宮神社がありますが、これはまた別の機会に。
ご祭神は
安芸津彦命(あきつひこのみこと)
産経新聞社出版
「神武天皇はたしかに存在した 神話と伝承を訪ねて」
によると
安芸津彦命は現在の広島市西部を本拠とした安芸国の豪族とのこと。
一行をもてなしたそうです。
どんなおもてなしだったのかな・・・
広島弁は通じたのかな?というのは余計な詮索でしょうか。
古代は現代と発音もスピードもかなり違うと言う話を聞いたことがあります。
それはともかく
下図が、神武天皇の旅した経路です。
(多家神社のHPからお借りしました)
7年なのか、滞在場所は他にもあるのか等いろいろ疑問はあるのですが、長期に安芸国に滞在したのは間違いないと私は思っています。
なぜ、長期に滞在したのか・・・
もし、私が天下を目指して東を目指したとしたら・・・と考えました。
途中にある大国を無視して通り過ぎるだろうか。
その国とは
大陸とも交易があり当時現在の広島県境までが支配地域の、広域に栄えていた国です。
先述の本によると
「出雲勢力の帰順を求め遠征」
とあるけれど、素朴に
初めてやってきていきなりそんな内容頼むのかなあ・・・と思いました。
(すいません!)
私の勝手な推測ですが、最初は
故郷からの贈り物を携えて首長に挨拶に向かった。
ぐらいではないかと。
「東の地で国を造り、一旗揚げたいです!」
と目をキラキラさせながら宣言するりりしい若者達の姿に
「大いに頑張りなさい。」
と鷹揚な言葉が返ってきただけではないか。
そして、一行は出雲国をあちこち視察し、その発展ぶりに目を見張り、国作りを勉強したのではないか。
そして、時間をかけて協力関係を結んだのではないかと推察しています。
その後の大和王権の展開と出雲国や吉備国(岡山県)の歴史を知ると、少し暗澹たる気持ちになるのですが。
多家神社。
雨がそぼふる中参拝しました。
広くて静かな神社でした。
「誰曽廼森(たれそのもり)」と呼ばれる森が神社の背後に広がっています。
神武天皇がこの地に入り、出会った人に
「そなたは誰ぞ」と尋ねた伝承が名前の由来とのこと。
同じ町内にあった顕彰碑に行ってみました。
多家神社から歩いて10分ぐらいのところにあります。
美々津港にもあったけれど、ここにも神武天皇御腰掛岩が。。。
上の顕彰碑の近くにあります。
土や木の葉に埋もれてしまっている・・・
団地の中にありました。