こぢんまりとした本日のお宿に到着。
部屋に入って、私は急いで鹿児島観光ガイドの本を取り出して地図を確かめました。
さっき観えた映像は現実にあの場所で起こりうるのだろうか・・・
観えたのがこの沖のこの辺り、そしてあの高度で飛んでいたから・・・
地図上で大隅半島の「鹿屋」の地名が目に入りました。
私は目をつむり、胸に刺さるような痛みを感じながら、ゆっくり深呼吸しました。
特攻隊が最も多く出撃した鹿屋基地から飛び立った零戦を観たのだろうか・・・
私は目を閉じたまま、手を合わせました。
なぜかふと、戦艦大和の沖縄特攻のことも浮かんできました。
大和もこの付近を通ったのかな?
夫がすぐネットで調べてくれました。
「豊後水道を通ってこの辺り、40kmぐらい離れとるけど、開聞岳は目立つから見えたかもしれんね。
あの日は天気が悪かったから、実際見えたかどうかはわからんけど・・・」
大和以外の戦艦もいたの?
「あの頃は大和以外の戦艦はもう動かせなくて駆逐艦や巡洋艦が随行しとった。」
夫の言葉は淡々としていて、それだけに私の心は引き裂かれるようでした。
そういう戦況の中、大和は沖縄へ最後の航海をしていたのか・・・
知らない事ばかりでした。
あまりに辛くて、知ろうとしていなかったのかもしれない。
「俺の祖父と叔父も終戦の年に広島沖から出航したけえ、豊後水道通ってこの辺りを航行していたはず。開聞岳を見たかもしれん。フィリピン沖で撃沈されたけど。」
とふいに夫が言いました。
そう言えば、結婚してすぐの頃、夫の家は戦時中船を持っていて、夫の祖父とその長男が軍の物資輸送のためにフィリピンへ航行させられて敵の攻撃で沈んだことを聞かされていたのでした。
遺骨は帰っていません。
当時、夫の祖父は今の夫より若くまだ40代、叔父は15才でした。
跡取りが亡くなって、家督相続で後を継いだ次男である夫の父はその当時まだ12才。
1945年終戦の年の3月のことです。
もう半年早く戦争が終わっていれば・・・
歴史に禁句の「たられば」をふと思いました。
「海の遭難の慰霊に行くことになるよ」
ヒーラー仲間がリーディングしてくれた言葉を思い出しました。
この鹿児島湾沖の海を、二度と戻ることなく渡っていった飛行機と船・・・
この海の悲劇を彼女は「遭難」と感知してリーディングしたのだと思いました。