開聞岳に行くと決めてから、シータヒーリングの教室で先生や受講生にリーディングをお願いして、
「行くことは決まっていた。」
と教えていただきました。
(自分でリーディングすると思いっきり主観が入りそうだったので)
以前のブログにも載せていた、ヒーラー仲間にも詳しくリーディングしてもらった内容は
・海で遭難した方の慰霊のために行くことになるので歴史的背景を知ること
・お塩を持って行くこと
でした。
開聞岳辺りの海の遭難・・・
調べども見当がつかず、薩摩と琉球の関係か、それとも、宣教師の乗った船の事なのか・・・
「一体どういう悲しい出来事がこの周辺にあったのだろう・・・」
出発の一週間前まで何も具体的に分からずお手上げ状態でした。
そうした中、ネットを検索中に
「開聞岳を本土最後の景色として目におさめ出撃した」
という文を見つけました。
もしかして、特攻隊のことではなかろうか、と調べると、まさしくそうでした。
そして、鹿児島の知覧と鹿屋、宮崎など九州各地や山口からも、基地から特攻隊が沖縄へ出撃していたという事実を知りました。
中には17才という若さで、特攻隊として出撃した方もおられたことを知りました。
開聞岳は本土の端にある遠くから見ても分かりやすい美しい円錐形の山。
「特攻隊員はこの山を見えなくなるまで振り返り、視界から消えると、沖縄へ向けて出撃の覚悟を決めた」
と生き残りの方が語ったエピソードも読みました。
開聞岳にはなんて悲しい歴史があったのだろう!
同時に私は、自分の無知に愕然としたのでした。
もしかして・・・
私が以前に2回観た海側からの開聞岳の景色は・・・
特攻隊の方が最後に目に焼き付けた開聞岳の姿なのだろうか・・・
私は、行くことになったきっかけも含め、全てを夫に話しました。
すると夫は
「俺らに何が出来るって言うの?おこがましいにもほどがあるよ!
そこにあったことを想い、心でその方たちに手を合わせる。
俺らが出来ることはそれだけじゃ。
それでええんじゃない?。」
怒ったように言われました。
夫の言葉を、私は耳にくぎ打たれるように聞き、その通りだと思いました。
その通りだと、思いました。